偽物の鬱病
欠けた果実が落ちた。
幹は不安定だった。
彼女は言った。
「底がないの。足りないの。満たして欲しいの。埋まらないの。」
郷愁が込み上げるような夕暮れ時に、自分だけが世界から断絶しているような、そんな感覚に陥った。
いつだって彼女は一人だった。呆然と立ち尽くしていた。
世界の輪郭がいくら彩っていたとしても、その内側には果てしない孤独が漂っていた。
唇がさよならを描く。
「どうすればいいんだろうね。何もわからない。底のないバケツはどうすればいいのかな。」
白い服を着た人にいくつもの黒い影を見せられた。それがどう見えるのか何度も尋ねられた。私には全部悪魔に見えた。普段見ている日常の光景だった。肉塊で塗れた世界だった。救いなんて一欠片もなかった。
穴を掘って埋めた。また穴を掘って埋めた。何度も繰り返した。意味なんてないって最初から分かってた。それでも続けた。反射だった。意味なんてなかった。
誰も褒めてなんてくれない。認めてなんてくれない。だから自分で認めるしかない。主張するしかない。そうしないと消えてしまうような気がしたから。
救いなんてなかった。報いなんてなかった。安寧なんてなかった。孤独だけがそこにあった。
「本物の孤独はね。他者との境界域がないの。自己の同一性がないの。世界の地続きが自分なの。逆に自分の地続きが世界なの。だから世界に怯えているの。」
「貴方だけには伝えておこうと思って」
差し伸べられた手さえも自らの喉元を絞める敵意に感じた。
幹が不安定だったから。基地なんてなかった。味方なんていなかった。初めから一人だった。
思ってもないことをいくらでも吐けた。
生きていく為に必要だったから。取り繕うのなんて人生で慣れきっていた。
「偽物の鬱病ってなに?本物の孤独ってなに?」
いつからか偽物の鬱病で本物の孤独は埋まってしまった。コンビニのようにありふれた自己憐憫に辟易していた。世界との断絶を感じた。
「偽物の鬱病は手が差し伸べられるけど本物の孤独はそうじゃないんだ。前者が本物とされ、後者は目に映らないんだ。正しいか正しくないかではなくて、感情が買われるか否かってことだけなんだ。」
意味がわからなかった。摂理なんて聞きたくなかった。理屈も通じなかった。ありふれた弱者が弱音を受け入れられていた。
「弱者も一種の強者だよ。本物の弱者は誰からも手が差し伸べられず見向きもされない。」
彼女が手首を切るたびに、多めの薬を飲むたびに人々は話を聞いた。
これが世界の摂理だということを理解した。
滑車
人生というのは酷く歪でこちらのタイミングなんて図らずに何時だって眼前に選択を迫ってくる。
どう生きればよいのか、どう生きていけば良いのか、他者はどう生きているのだろうか。
生き方に間違いなんて本質的にはないのかもしれないが、後付けされた価値という物がないと酷く惨めに思えてくる。
元来、人も動物なのだから何も考えずに瞬間を生きていけば満たされ続けていけるのだろう。だが、そうできないのが社会的に生きるという事なのだと思う。生きていってしまう事への絶望、いつかは必ず死んでしまうという絶望。何もしなくても時間だけは一方的に流れていくし、どれだけ抗っても何もしなければ何も変わらないままの一方で、周囲は何かを成していって自分一人だけが取り残されていく。
持たざる者は何も繋ぎ止めておく事ができないし、漂泊していく物を留めておく事ができない。
生きていくのはスポットライトで照らされたステージの上で醜態を晒しているようで、酷く惨めに思えてくる時がある。見世物のようでいて、だけど誰も見ていなくて、しかし、誰かが見ているのだとしたらとても滑稽に映ると思う。
そういう時は何かに耽っているべきなのかもしれない。何かに耽っている間は自分という器から抜け出せて「何者でもない存在」から「実態のない意識」だけになる事ができる。だが、耽りを終えると現実の自身に回帰して絶望的な気持ちに回帰するのが人生というものだ。
価値が安定した存在になれたらどんなに楽なのだろう。価値がないような気薄な存在は小手先の技術でやり過ごしていくしかない。ショーケースに入れておけば人々が手に取るような物とは掛け離れていて、訪問販売のような押し売りでも生きていく為には成し続けていくしかない。
不可逆的な領域については巻戻らないのだから慎重に事を運ぶ必要がある。そうしなければ後々になって代償を支払う事になる。後ろ盾のない存在は身を粉にして責任を背負わされる事になる。
それが限界なのかもしれない、自身の価値なのかもしれない。薄っぺらい物でいくら繕っても、元はガラクタなのだからいつかは廃棄されて終わりだ。
回収されるような廃品は本当の意味では廃品ではないと思う。誰にも回収されない廃品はただ朽ち果てていくだけだ。その事象を単体として見ればまだ救いはある。だが、相対的に見たらどうだろうか。廃品にならない物や、回収されていく廃品を後目にして、ただ朽ち果てていくのはどうにも惨たらしい。
憐れと思われるだけまだ救いがある。同情されるだけ余地はある。本当に救いのないのは「在るのにも無しとされ忌避されるもの」なのだと思う。
そういったものに成り果てる可能性に怯えている。私には揺るぎない後ろ盾がない、需要がない、確固たる安全基地がない。
眼前が揺れる。不安が揺れる。
その日暮らしの滑車が回り始める音がした。
そういえば
冬がやってきた。
家の中ではフリースの上に半纏を羽織って寒さに堪え忍んでいる。
そういえば厳しい冬の寒さが「冬将軍」と呼称されているようだが、どの要素が将軍なのか全く腑に落ちなかった。
寒さといえば冬は鍋が捗りますよね。野菜を煮れば水分が飛んで小さくなるので沢山の栄養を手軽に摂取する事ができます。鍋は本当に便利です、万能です。
鍋といえば土鍋で食べた事はないんですよね。普通の鉄製の鍋しか所持していないので。やはり味うんぬんではなく風情があるとかなんですかね。
食べ物の容器といえば岩石プレートなんかがあると熱々で肉料理なんかを食べる事ができそうですね。普通の食器だとすぐに冷めてしまいますから。
こんな風にそういえばを繰り返してネットサーフィンのように考えがコロコロと変わっていく自分でした。
禍福は糾える
世界が透き通っていて喉がカラカラに渇きそうで、そんな感覚がもう少しもう少しと思える
自己の連続性が曖昧だ。何時から現実を認識する事ができ、何時から現実感を喪失したのだろう
選手と観客では見ている物は同じでも体感が全く異なっている。自分は選手としての実感を喪失してから現実がフィルターの外側に弾かれてしまった
芸術が自然を模倣するように、自分も社会を模倣する事ができるのだろうか。再び選手として現在を生きることができるのだろうか
白昼夢が永遠に続いているような感覚。時間が切り離され、自分さえも切り離されいく
しかし、投げやりになったとしても自分と世界を繋ぎ止めなければならない。網がないなら自分で糸を紡いで編んでいくしかない
人間は網があって初めて育つことができる。たとえ常識という雑音が身を軋ませたとしても最後までもがくしかない。それが生きるということなのだろうから