人生

限界

滑車

 

 

人生というのは酷く歪でこちらのタイミングなんて図らずに何時だって眼前に選択を迫ってくる。

どう生きればよいのか、どう生きていけば良いのか、他者はどう生きているのだろうか。

 

 

生き方に間違いなんて本質的にはないのかもしれないが、後付けされた価値という物がないと酷く惨めに思えてくる。

 

元来、人も動物なのだから何も考えずに瞬間を生きていけば満たされ続けていけるのだろう。だが、そうできないのが社会的に生きるという事なのだと思う。生きていってしまう事への絶望、いつかは必ず死んでしまうという絶望。何もしなくても時間だけは一方的に流れていくし、どれだけ抗っても何もしなければ何も変わらないままの一方で、周囲は何かを成していって自分一人だけが取り残されていく。

 

 

持たざる者は何も繋ぎ止めておく事ができないし、漂泊していく物を留めておく事ができない。

 

 

生きていくのはスポットライトで照らされたステージの上で醜態を晒しているようで、酷く惨めに思えてくる時がある。見世物のようでいて、だけど誰も見ていなくて、しかし、誰かが見ているのだとしたらとても滑稽に映ると思う。

 

そういう時は何かに耽っているべきなのかもしれない。何かに耽っている間は自分という器から抜け出せて「何者でもない存在」から「実態のない意識」だけになる事ができる。だが、耽りを終えると現実の自身に回帰して絶望的な気持ちに回帰するのが人生というものだ。

 

価値が安定した存在になれたらどんなに楽なのだろう。価値がないような気薄な存在は小手先の技術でやり過ごしていくしかない。ショーケースに入れておけば人々が手に取るような物とは掛け離れていて、訪問販売のような押し売りでも生きていく為には成し続けていくしかない。

 


不可逆的な領域については巻戻らないのだから慎重に事を運ぶ必要がある。そうしなければ後々になって代償を支払う事になる。後ろ盾のない存在は身を粉にして責任を背負わされる事になる。

 

それが限界なのかもしれない、自身の価値なのかもしれない。薄っぺらい物でいくら繕っても、元はガラクタなのだからいつかは廃棄されて終わりだ。

 

回収されるような廃品は本当の意味では廃品ではないと思う。誰にも回収されない廃品はただ朽ち果てていくだけだ。その事象を単体として見ればまだ救いはある。だが、相対的に見たらどうだろうか。廃品にならない物や、回収されていく廃品を後目にして、ただ朽ち果てていくのはどうにも惨たらしい。

 

憐れと思われるだけまだ救いがある。同情されるだけ余地はある。本当に救いのないのは「在るのにも無しとされ忌避されるもの」なのだと思う。

 

そういったものに成り果てる可能性に怯えている。私には揺るぎない後ろ盾がない、需要がない、確固たる安全基地がない。

 

眼前が揺れる。不安が揺れる。

その日暮らしの滑車が回り始める音がした。